休日のキルシュ亭は、ひっそりとした空気を作り出していた。

けっして人気がないために暗い雰囲気に感じるというわけではなく、静かに眠っているようなそんな暖かなひそやかさだった。


賑やかな店内も好きだけれど、こんな店員にしか知ることが出来ない空気に浸れる時間もあたしは好きだった。

きっとこんなこと言ったら、みんなには以外だって言われるんだろうけど。




あたしが、普段お客さんが座っている椅子に腰掛けてぼんやりとしていると、マイが厨房から出てきた。

手には、バームクーヘンを乗せたお皿を持っていて、なんとも幸せそうな表情を浮かべている。

マイは、すぐにあたしに気づくと、ぱっと明るい顔をこっちに向けて、早足に駆け寄ってきた。



「あ、キャシー。チハヤが昨日作ってくれたバームクーヘンがあるの。一緒に食べようよ!」


にこりと笑ったマイが差し出したバームクーヘンは、幾重もの生地がしっかりと重なっている姿がとてもおいそうだった。

あたしはちょっとびっくりして、パチパチと瞬きをした。



「え、いいの?マイ、一人で食べようと思ってたんじゃないの?」

「うん。でも、二人で食べた方がおいしいし。待っててね、お皿持ってくるから。」


パタパタと厨房にまた消えたマイの後ろ姿にくすりと笑った後、あたしはお礼に紅茶を入れてあげようと思って、

受け取ったバームクーヘンを机に置くと席を立った。





コップにレモンティーを注ぐと、ほのかなレモンのにおいが鼻腔に広がって、あたしは一瞬だけ目を瞑った。



そういえば、アカリもこの紅茶が好きだったな。


ふっと、頭に浮かんだことは、あたしを一瞬寂しい気持ちにさせた。思い浮かべたらもう、頭から離れない。

アカリの話し方を、声を、笑ったときにきゅっとあがる口角と細くなった目が本当に幸せそうな表情を。

胸の中に一枚一枚貯めていた写真を眺めるように、それは鮮明に、より鮮やかにあたしの頭の中で反復した。



「キャシー。」


マイの言葉にあたしは急に現実に呼び戻された。二三度瞬きをして、胸の奥に想いをしまいこんだ。



「あ、マイ。紅茶入れたんだ。どう?」

「うん、ありがとう。」


二人で客席に座ると、切り分けられたバームクーヘンを小皿に乗せて、マイがあたしの前に置いてくれた。

バームクーヘンを一切れフォークで切って、口の中に放り込んだ。

見た目どおりバームクーヘンは、ふうわりと口の中で甘く溶けていった。



「おいしい。」

「ねー。やっぱりチハヤの料理は最高だよ。」


「チハヤは?」

「サクラちゃんといつものとこに行ってる。」

「そっか。」




「・・・もう、5年だね。」

「・・・うん。」


しばらく、二人とも何も言わなかった。

その間に、黙ってレモンティーを二口すすり、バームクーヘンにフォークを三回突き立てた。


暖かな陽光がキルシュ亭いっぱいに差し込んでいる。

あたしは、柔らかな膜が胸にかかったような気分だった。







「ねえ、キャシー。」

「うん?」

「私がチハヤのこと好きだったってこと、知ってた?」


「・・・うん。」

「やっぱりばれてたんだ。」

「そんな気がしてただけよ。」


「うん、でも。私は、アカリさんとチハヤが結婚したこと、すごく嬉しかったの。二人のこと大好きだったから。」

「うん。」




「チハヤが辛いのが見てられなかった。」


マイは、言ってしまったというような顔をした。

けれどその後、ずっと溜めていたことを吐き出すように、マイはぎゅっと手を握って、言葉を紡いだ。



「私がチハヤに手紙の返事を書くことを勧めたの。」

「でも、でもね。今は、チハヤは心が落ち着いているのかもしれないけど。」


「・・・もしも、アカリさんからの手紙が途絶えたら、その後チハヤはどうなっちゃうんだろう。」


「チハヤを見てたら私、そればっかり考えちゃうの。後何枚、ハーバルさんの元にアカリさんが書いた手紙があるのかって。

ハーバルさんに聞きたくてしょうがないの。でも・・・、私が口に出すことじゃないし。」



私は、か細くなるマイの声を聞きながら、一瞬よりも少し長い間目を瞑った。

膜の中にある、一番敏感な部分に触れられたように、胸がざわざわと騒いでいる。




アカリのことが、頭に浮かんだ。アカリのことを思い出すと今でも胸が痛くなる。


頭に思い浮かぶアカリは、いつも元気で牧場という仕事を心底楽しそうにこなしている姿だった。

そしていつも、動物や植物を愛おしそうに見つめていた。

彼女が、そっと慈しみながら馬の毛をブラッシングしたり、

トマトの実を摘む姿は、あたしの中で今でもしっかりと心に根付いて離れなかった。



私でさえ今でもまだ、アカリの残像を探すときがあるというのに、チハヤならなおさらだろう。


ハーバルさんが毎年一通ずつ届けるアカリの手紙は、チハヤにとってはアカリの残像そのものだ。

それはきっと彼にとって唯一の支えなのではないだろうかと思いながら、あたしはふっと俯いた。



涙が出そうになる。

どうしてアカリはこんなにも大切な人を残して行ってしまったの。

何度も何度も心の中で問いかけていた問いが今また心に浮かび上がった。




あたしは目に溜まりそうになった涙をひっこめて、浅い海を思わせる薄水色のマイの瞳を見つめた。

薄く光に溶けたようなふわふわとした睫が、不安そうに瞳の上で震えていた。


「大丈夫よ。」


それ以外なんていったらいいのか分からなかった。


あたしは、大丈夫っていう言葉しかしゃべれないようになってしまったかのように、何度も大丈夫、大丈夫と繰り返した。

何回か口にした後で、あたしは胸の中にあったものが少しだけ軽くなった。


そこで初めて、あたしは自分のために大丈夫、と繰り返していたことに気づいた。胸の中に出来てしまった重たいものを、

少しずつ汲み取っていたのだと思った。

気持ちが落ち着いてきたので、あたしはマイに向けて言葉を口にした。




「マイがそんなに心配してくれてるって、チハヤにもきっと伝わるよ。

それに、今はサクラちゃんだっているんだし。落ち込んでなんかいられないんじゃないかな。」



微かでもいいから自分が微笑めるように、アカリのきゅっと口角をあげた笑顔を思い出しながら、あたしはマイを覗き込んだ。

震えていた睫は、幾分か落ち着きを取り戻しつつあった。



「うん、・・・そうだね。そうだよね。」


「ね?」


「うん、ごめんね。ちょっと取り乱しちゃって。」

「ううん、気にすることないよ。」



冷めかけのレモンティーにもう一度口をつけながら、あたしはもう一度だけ胸の中に収めたフィルムを眺めた。

アカリの顔を思い浮かべながら、もう一度彼女のように笑えるだろうかと試したけれど、上手くいかなかった。


食べかけのバームクーヘンを口の中に押しこむと、ほんのりとした甘味が口内に広がって、少しだけ泣きたくなった。




なんでもない暖かな午後の光が、ゆっくりとキルシュ亭の店内を照らしていた。










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